小樽ロータリークラブ">

 

 

◆小樽ロータリークラブの誕生

日本でロータリークラブの活動が始まったのは1920(大正9)年。ロータリークラブが1905(明治38)年にアメリカ・シカゴで誕生の第一声をあげてから15年後のことだ。当時の三井銀行重役・米山梅吉氏が国際ロータリーから委任され、世界で855番目となるクラブが東京に誕生した。それ以来、国内主要都市、さらに当時、日本の統治下にあった朝鮮、台湾、満州にもにクラブ創設の動きが広がり、1928(昭和3)年にはそれらの全体が国際ロータリー第70地区の指定を受けている。

 

第70地区の3代目ガバナーとなった村田省蔵氏(旧《大阪商船社長》)は全国的にクラブ拡大をすすめ、1932(昭和7)年12月、北海道では初となる札幌クラブが誕生。翌年8月、札幌クラブのチャーターナイト出席の帰途、小樽に立ち寄った村田ガバナーが地元有力者にロータリー活動を勧めたことが、当地でのクラブ設立の端緒となる。ここから設立に向けた動きが具体化し、翌年には晴れて《小樽ロータリークラブ》の誕生となった。東京、大阪、名古屋、神戸、京都、横浜、京城、大連、奉天、ハルピン、台北、広島、札幌、福岡に次ぐ15番目、日本国内では10番目のクラブ発足だ。

 

 

第1回総会が開かれたのは昭和8年12月12日火曜日、この2年前、色内に外国人専用ホテルとして開業したばかりの《越中屋ホテル》が会場だった。会長理事に就任したのは《小樽高等商業学校》(現《小樽商科大学》)校長の伴房次郎氏で、会長を含めて30名が創立メンバーに名を連ねていた。

 

昭和8年といえば、世界的な経済恐慌の影響を受けつつも、明治以来続いてきた小樽経済の好調が、まだ続いていた時代である。そうした状況も背景となって会員数は順調に伸び、クラブ発足から5年を経た昭和13年では42名を数えていた。その間に役員・委員の活動も軌道に乗り活動内容は充実。会発足後の滑り出しは順調だった。

 

 

◆戦時を迎え受難の時代

しかし昭和12(1937)年7月の日中戦争勃発を機に、世相は暗い方向へと進む。軍国主義が急速に強まるなか、アメリカ発祥のロータリークラブは親米的な活動団体とみなされ、軍部の圧力を受けることとなる。小樽のクラブ創立直後から毎月発行された会報《小樽ロータリアン》が昭和13年7月をもって発行休止となったのは、資材の不足という背景もあったが、それ以上に時事問題にふれる出版活動が困難という事情も大きかった。

 

昭和15年には日本ロータリークラブは国際ロータリーから脱退、全国各地のクラブは解散を余儀なくされた。そのまま組織が消滅したところもあったが、名称を○曜倶楽部、同人会、職能倶楽部などと変えたうえで、何とか会員相互の繋がりの維持を図ったものも少なくはない。

 

小樽においては昭和15年9月の理事会において、会を一旦解散することを決議、12月に解散式を開催。明けて16年1月21日、新組織《小樽火曜倶楽部》の発会式を行った。こうした状況にあっても会員数そのものは維持されたが、例会ではロータリーソングに替えて愛国行進曲を歌い、会活動への理解を求めるため特高警察署員を来賓として迎えたこともあった。例会の食事に事欠き、ロータリーの鐘も金属供出のため手放されるなど、戦時下での苦しい会運営が続く。

 

 

◆戦後の復興、国際ロータリーへの復帰

昭和20年8月15日、太平洋戦争終結。軍部による集会への圧力はなくなったが、戦後の混乱のなかでの会活動の継続には、さまざまな物理的困難が伴った。

 

それまで例会場としてきた北海ホテルが進駐軍に接収されて使用不能となったことから、例会開催は一時中断。10月からは中央ホテルほか何度か会場を変更しながら例会を継続するが、食料不足は相変わらずで、主食は各自で持参といった状況が戦後しばらく、昭和22年頃まで続いた。

 

やがて社会全般の復興が進むにつれ、ロータリー活動の再興を目指す気運もまた高まっていく。当面の目標となったのは国際ロータリーへの復帰であったが、昭和22年3月、東京に《ロータリー復帰協議会》が結成されたことは、関係者に大きな希望を与えた。

 

昭和24年5月、東京以下、札幌を含む7クラブが国際ロータリーへの復帰を果たす。《小樽火曜倶楽部》は9月6日の例会において会の解散を表明、そのまま《小樽ロータリークラブ》の設立総会に切り替えて発会式が行われた。その後、9月16日には創立時と同じチャーター3659番のクラブとして、公式に復帰が承認された。昭和15年12月の解散から9年目にしてようやくの復興だ。

 

◆戦後の復興から現代へ

“奇跡的”ともいわれる戦後の日本の急速な復興とともに、ロータリークラブの組織もまた成長が著しい。全国でのクラブ数増加を受け、それまで日本全土が第60区であったのを昭和27年7月、東西2区に分け、さらに30年には4区へと分割が進んだ。32年には北海道・東北を第350地区とする新たな区分けが行われたのを機に、小樽での地区大会開催が決定。翌33年8月17~19日の大会を見事に成功させた。

 

34年には小樽市内での会員増加を受け、クラブの新設が検討され始める。そこでは地区分割のための境界線設定が主要な課題となったが、いくつかの協議を経て《第二火防線》(浅草通り)、《高商通り》(商大通り・通称「地獄坂」)をおよその境界として新クラブを設立する方針が固まった。新設の《小樽南ロータリークラブ》が創立発会式を行ったのは昭和35年2月5日のことだった。このほか小樽クラブがスポンサーとなって36年4月に余市クラブ、37年4月に岩内クラブを、それぞれ発足させている。

 

昭和38年は《小樽ロータリークラブ》発足30周年の記念の年となる。創立の日と同じ12月12日に記念晩餐会を開催、翌春4月には小樽公園内に700本の植樹を行った。現在も《ロータリーの杜》として親しまれているのが、これらの木々だ。その後も地域のニーズをとらえた社会奉仕活動が活発に行われている。昭和48年9月には会員数が100の大台に。50年9月、小樽市内で第3のクラブ《小樽銭函ロータリークラブ》が誕生、小樽クラブより旗と鐘が贈呈された。

 

平成15年10月18日にはクラブ創立70周年の記念式典・祝賀会が開かれた。長い歴史と伝統を守り、クラブ創立時の原点に返り、親睦と奉仕、会員間の友情と理解を大切にし、積極的なクラブ活動を展開するという方針が確認された。

 

◆小樽ロータリークラブ 年表

昭和8年12月12日
《小樽ロータリークラブ》設立総会
初代会長・伴房次郎氏 メンバー30名。

 


RC創立以来、戦前の例会場となった北海ホテル

 

昭和13年7月
会報《小樽ロータリアン》の発行を休止。

昭和15年9月7日

理事会において《小樽ロータリークラブ》の解散を決議。

昭和16年1月21日

《小樽火曜倶楽部》発会式 加入44名。

昭和20年8〜10月

例会場がアメリカ軍に接収されたため例会を休止。

昭和23年12月

《小樽火曜倶楽部》において《小樽ロータリークラブ》創立15周年晩餐会を開催。

昭和24年9月6日

《小樽火曜倶楽部》解散、同時に《小樽ロータリークラブ》創立発会式を挙行。

昭和28年12月

《小樽ロータリークラブ》創立20周年記念例会兼家族会を開催。

昭和33年8月17〜19日

《小樽ロータリークラブ》のホストにて350地区大会を開催。会場は石山中学校。

昭和35年2月5日

《小樽南ロータリークラブ》創立。

昭和36年4月25日

《余市ロータリークラブ》創立。

昭和37年4月24日

《岩内ロータリークラブ》創立。

昭和38年12月12日

《小樽ロータリークラブ》創立30周年記念晩餐会を開催。

昭和39年4月28日

小樽公園内に《ロータリーの杜》700本を植樹。

 

昭和39年4月 小樽公園の一角に「ロータリーの杜」植樹

 

昭和39年8月 小樽四ツ葉学園に鶏舎が寄贈された

 


昭和48年12月15日

《小樽ロータリークラブ》創立40周年記念式典・祝賀会を開催。

昭和50年9月30日

《小樽銭函ロータリークラブ》創立。

昭和58年10月18日

《小樽ロータリークラブ》創立50年記念式典・祝賀会を開催。

平成元年2月10日

《小樽ロータリークラブ》規定審議会で女性の入会を認めることを決定。

平成5年6月22日

小樽市制70周年記念として小樽3クラブ合同で小樽運河沿いに水飲み場「ふれあいの泉」を設置する。

平成5年10月16日

《小樽ロータリークラブ》創立60周年記念式典・祝賀会を開催。

平成6年10月11日

《小樽ロータリークラブ》第3000回記念例会を開催。

平成9年5月16〜17日

国際ロータリー第2510地区年次大会を小樽で開催。会場は小樽グランドホテル。

平成9年8月26日

地区大会開催の記念事業として毛無山展望台に鳥瞰図を設置。

平成15年10月18日

《小樽ロータリークラブ》創立70周年記念式典・祝賀会を開催。

 

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